HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲5 April

4 降り立った鳩


ハンスは階段を上がって外に出た。
そこは幹線道路から1本奥に入った道で、通る車はそう多くない。雨は上がり、見上げれば、夕刻の空に浮かぶ雲の輪郭が空に溶けて流れていた。
「通路を使わないのか?」
追って来た飴井が訊いた。
「地下にはガイストがいる。僕、地下は嫌いだよ」
「おまえ、狙われてるんだぞ」
「地下通路だからって安全じゃない」
「地上よりは安全だ」
飴井は周囲に目を配って言った。付近には高い建物や植え込みが多数存在している。敵がその気なら、どこに潜んでも狙いを付けられる。

「どうして付いて来るの?」
ハンスが訊いた。
「おまえにもしものことがあったら美樹が悲しむだろう」
「僕を守ってくれてるつもり?」
「放っとけないのさ、性分としてな」
「どうしてさ? 僕は平気なのに……」
「強がりはよせ」
「強がり?」
ハンスはそこで足を止め、男を見た。

「そうだ。気づかないのか? おまえは、美樹を失うことが怖いんじゃない。自分が死ぬことを恐れてるんだ」
頭上ではライトを灯したヘリコプターがゆっくりと海の方へ向かって行くのが見えた。
「ふふ。何を言うですか?」
潮風が二人の足元に絡んで行く。
「あの夜もそうだった。おまえは、怯えていた。自分が死んで、彼女から忘れられることをなによりも恐れていた。だからこそ深い記憶の傷を彼女に刻むことで自分の望みを叶えようとした。そうじゃないのか?」
霞の掛かった空に半分欠けた月が浮かんでいた。ハンスは黙って植え込みの間から伸びた草の白い花を見つめている。

「そうだとしたら?」
その口調は淡々としていた。
「おまえの作戦勝ちさ。彼女はあの事件以来ずっとおまえの幻を追い続けていたんだからな」
通りの向こうのバス停で止まったバスが客を乗せ、駅の方へ走り去る。二人の周囲には完全に人がいなくなった。そして、車も途切れ、辺りは急に静かになった。
その道路は高いビルに囲まれていた。そして、彼らの側には長い石垣がそびえている。植え込みには植物もあったが、まるで灰色の谷の底にいるようだった。その谷の底には長い地下通路が延びていて、ガイストの風が木霊している。それが時折、足元に開いた通気口から上がって来る。しかし、今ここに一緒にいる男は何も感じていないようだった。

「彼女が何故モデルガンを収集しているかわかるか?」
飴井が訊いた。
「マニアだからじゃないの? そりゃ、僕だって実弾射撃場に行きたいって言われた時にはかなり驚いたけど……」
言った瞬間、それは違うとハンスは思った。言葉は齟齬を誘発し、真実を見えなくする。ここでは植物は皆、濃い色をしている。草も人間も闇を持ち、知らずとそれらを隠蔽している。そして、冬の後には、容易く春がやって来る。気が付けば、あたたかな風の中にいる。囲われている。そして、得体の知れない何かに共犯させられているのだ。

「そう。実弾射撃場だ。そして、その先にあるものは何だと思う?」
飴井が訊いた。二人の間を大きな翼の影が過ぎる。
「その先?」
歩道に降り立ったのは鳩だった。餌を見つけて歩き回っている。そこには小さな亀裂が開いており、挟まった種子を嘴で突く。
「恋人の敵を撃つためさ」
吐き捨てた言葉の跡を追うように、飴井は目の前の男を見つめた。地下から吹き出して来る風に鳩は警戒し、翼を広げると何度か威嚇して声を上げたが、すぐに飛び立って行った。ハンスは沈黙したまま、鳩を見ていた。

「確かに彼女は前からそういった物に興味があったようだ。が、目の前で銃撃され、愛する者を失ったんだ。普通なら銃を憎んだり、恐れたりするだろう。だが、彼女はもっと別の関わり方を望んだ。つまり、おまえの敵を取りたいなんて愚かな選択をしたんだ」
「愚かだって?」
ハンスが聞き咎める。
「そんなことをしたって何の解決にもなりはしない。いつまでも憎しみや悲しみに囚われた心のままでは先へ進めなくなる」
「でも、僕がいなくなった後、彼女は仕事に打ち込んでいたのでしょう? とてもそんな風には見えなかった」
「金を貯めて、海外で射撃訓練を受けるつもりだったそうだ」
互い違いに積まれた石垣を見て、ハンスは軽く息を吐いた。

――そんなの無理だってわかってる。でもね、何かがしたいの。せめて形だけでも彼のために何かが……

「本気だったんだ」
飴井は目の前にいる金髪の男と彼女の決意とを天秤に掛け、比べようとした。どれだけのハンディを与えれば、その天秤の釣り合いは取れるのか。信頼という錘は、あとどれくらい必要なのか、それが見せかけでないことを祈らずにはいられなかった。
「僕のために……」
再び、足元の白い花を見つめるハンス。それから、徐に振り返って言った。
「そうだ。おまえのためにだ」
焦れたように飴井は言った。その脇を一台のバイクが徐行しながら通り過ぎる。

「素敵だ。何ていい子なんだろう」
ハンスが微笑む。
「そうさ。おまえなんかにゃもったいないくらい真面目でいい子だったよ。学生の時からずっと俺は見て来たんだ。彼女を……」
が、その呟きはだんだん小さくなって消えた。
「それで、キャンディーは僕に嫉妬してたですか?」
勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
「俺は彼女が心配なだけだ。前の時もそうだったが、また、おまえのような悪い男を好きになってしまって……」
「悪い男? そうかもしれないですね。でも、僕は彼女を泣かせたりしません」
「信用出来るか! おまえが現れてから、ろくなことがない。彼女から平穏を奪って、傷付けてばかり……」

「僕達は同じ一つの魂なんです」
ハンスが言った。
「海の青さが空の反射だと言うなら、僕の空に彼女を塗り込めてしまえばいい。そうしたら僕ら、同じ青さを共有する者として同じブルーでいられる」
「何を言ってる?」
「僕は身体に傷を持ってる。でも、もし彼女が心に傷を持つ者ならば、僕らお互いにその傷を打ち消し合うことが出来るかもしれないって言ってるんです」
「屁理屈を言うな」
「でも、僕はそうだったらいいって思ってるんです」

それからまた、二人はゆっくりと歩み始めた。5分ほど行くと道を折れ、幹線道路に出た。車の往来が激しい。彼らは自転車道もあるゆったりとした歩道を進んだ。間もなく歩道橋が見えて来た。
「風だ」
ハンスが足を止める。視線の先は歩道橋。その中程に立った男も、じっとこちらを注目している。
「あいつ、能力者だ」
ハンスが目を細めて言った。
「敵か?」
「闇の風を呼び寄せている。ああやって挑発してるんだから味方じゃないでしょうね」

「しかし……。ここは幹線道路だぞ。こんな所で能力を使ったら……」
夕方のラッシュを迎え、車は引っ切りなしに往来している。
「関係ないんじゃないの? むしろ派手な立ち回りを好むガイストだっているし……」
ハンスが無責任に言った。
「何とかなるのか?」
「わからない。一応話し掛けてみるけど、ガイストも人間と同じで言葉があっても通じないことがあるからね。むしろ邪魔っていうか……」
「ガイスト? でも、あれは人間だろ?」
「形はね」
ハンスは面倒そうに答える。

「形はって……。人間の振りしたガイストってのがいるのか?」
「いるよ。たとえば、この僕」
振り向いて笑う彼の瞳が真紅に光る。
「おまえ……」
驚愕する飴井。
「ふふ。面白いでしょう? 角度によって赤く見えるの。ガラスの反射のせいかな?」
そう言ってくすくすと笑う。
「敵がいつ攻撃して来るかもわからないって時に……」
「だから、あなたは逃げて。ルドかジョンに連絡してよ。僕はちょっと行って遊んで来るから……」
言うとハンスは歩道橋に向けて駆け出した。飴井は軽く肩で息を吐くと、元来た道を引き返した。

そして、数十メートル戻ったところで建物から出て来た金髪の女に呼び止められた。
「探偵さん」
いきなりそう呼ばれて、飴井は身構えた。彼女は自分の素性を知っている。
だが、飴井はその女との面識はない。
「何故、俺が探偵だと知っている?」
「何でも知っていましてよ。飴井進。元神奈川県警の刑事さん。強すぎる正義感が仇になって辞職したとか……」
「日本語が達者なようだが、あなたの名前は?」
「私はナザリー・バウアー」
「バウアーだって? なら、あなたもドイツ人なのか?」
「そう。ハンス・ディック・バウアーは私の兄よ」
「何だって?」
彼は驚きを隠せずにいた。そんな事実は知らされていなかったからだ。


一方、ハンスは歩道橋の上まで来ていた。細い橋の上で互いの風が吹き抜ける。相手はまだ若い男だった。黒い上下に鎖の付いたロケットペンダント。髪は僅かにウェーブが掛かっている。
「何のつもりですか? こんな場所で闇の風を使うなんて……」
ハンスが言った。
「ギャラリーは多い方が燃える質なんでね」
男が答える。
「ここは舞台じゃないよ」
「だが、最高のシチュエーションだ。無数のヘッドライトの群れが俺達の下を潜り抜ける。フロントガラスから、ここはよく見えるだろうからな」
「目立ちたいだけなら、僕は降りるよ」
ハンスが背中を向ける。

「待てよ」
男は闇の風の鞭を伸ばす。ハンスはそれをかわすとすぐさま反転し、風に乗って跳躍して男の背後に回る。
「せっかく来たんだ。付き合えよ」
男は鞭を振り回す。圧縮された風が唸りを上げて足元や欄干を叩き付ける。ハンスはそれらの攻撃を軽くかわすと、欄干の上に立った。そして、再び跳躍しようとする足に鞭が絡んで来る。が、彼は強引に風を旋回させた。ハンスに絡め取られた風が、逆に男を襲う。が、新たな鞭が現れてそれを切り裂く。空は暗さを増していた。闇の風が集まっているのだ。男の背後で闇が閃く。風を放ち、激突する度に微かな金属音が混じる。
(不快な音だ)
ハンスは男の首にぶら下がっているペンダントに腕を伸ばした。爪の先には鋭利な光が宿っている。しかし、攻撃を予期していたように男はその腕を掴んで来た。

「おまえはわざと……!」
両腕に巻き付いて来る闇の鞭。
「音楽家ってのはどいつもこいつも潔癖野郎で困る。だが、少しのノイズも認めようとしないその傲慢さが、命取りになる」
男がせせら笑う。
「そうさ。僕の耳は繊細なんだ」
「じゃあ、もっと盛大にやろうか。下にはもっとでかい金属の塊がごろごろ走ってるからな」
男が笑う。
「何をするつもりだ?」
上空で渦巻いていた闇が旋回を始める。

「メソサイクロンでも作ってるの? それにしては小さいけど、ここでダウンバーストをしようってのか?」
「面白いだろ? 車も道路もこの橋も破壊されて、明日は俺達が朝刊の一面を飾る」
それを聞いたハンスが笑う。
「あは。英雄にでもなりたいの? いや、そんなのただの犯罪者でしかないか」
そう言いながらもハンスはまだ笑っている。
「何がおかしい? 身動き取れないくせに……」
男が凄む。が、ハンスは怯まない。渦巻く風はどんどん発達し、巨大化している。それが地上を襲えば、甚大な被害が出るだろう。しかし、ハンスは落ち着いていた。
「ふ。甘いよ」
瞳に光が宿っていた。次の瞬間。ハンスは自分を拘束していた闇を解き、男の腕を振り払った。そして、ビルとビルとの間から吹き抜けた風が水平に噴き上げ、上空に集まっていた風の渦を寸断し、闇を散らした。

「貴様……」
「わかっただろう。僕にこんな脅しは通用しない」
さっと手を伸ばし、男の首に掛かっていたペンダントを掴む。そこには小さくアルファベットが彫り込まれていた。ハンスは一瞬だけそれを見たが、首を傾げて言った。
「最初の文字はSかな? あとは……。よくわかんないや。ねえ、何て書いてあるの?」
無邪気に訊く。
「SHIGERUだ」
「あれ? それってどこかで聞いたような……」
その時、歩道橋の階段を上って来た者が声を掛けた。

「茂! もういいでしょう? その辺にしておかないと火傷するわよ」
女の声だった。
「ナザリー」
ハンスがその名を呼ぶ。後ろには飴井もいた。
「何だ。お芝居だったの?」
ペンダントヘッドを持ったまま、ハンスは男に訊いた。
「悪いが、あんたの実力を測らせてもらった」
茂が言う。
「ふん。そういう台詞は真に実力がある者が口にするんだよ。たとえば、この僕とかね」
「そうかな? 俺はまだ本気じゃなかったんだけどな」
「それを言うなら僕だって……」
二人は睨み合ったまま一歩も譲らない。

「ところで、そのロケット返してくれよ」
男が言った。
「中を確かめてからだ」
「写真が入ってるだけだ」
「だったら見られても問題ないだろう? こういう所によく危ない物隠してる奴がいるんだ」
そう言ってハンスはそのロケットの蓋を開けた。そこには確かに写真が入っていた。
「わかった。返すよ」
ハンスは他に危険な物がないのを確認すると男にそれを返した。

「そうか。あなたが浅倉茂。直人の元友達で、コンクールではずるして勝った人だったね」
「酷い言われようだな。俺は今でも直人とは親友だし、コンクールでのあれはあくまでも事故だ」
「ナザリー、それは本当ですか?」
ハンスが尋ねる。
「さあ。その時、私達はまだ知り合いじゃなかったから……。本当のところはわからないわ」
彼女が首を竦める。
「説明してくれないか?」
飴井が口を挟む。
「この人、直人君の元友達なんだって……」
ハンスが言った。

「結城直人か? 宮坂高校の」
「そうだよ。この人は直人君が好きみたい。ロケットに写真入れてるもの」
「それで、目的は何だ?」
飴井が尋ねる。
「協力してもらおうと思ったんですよ。風の能力者であるハンス・ディック・バウアーさんに……」
浅倉が言う。
「あれが人にものを頼む態度?」
憮然とした顔でハンスが言う。
「強い力が必要なんだ」
浅倉はナザリーに同意を求めるように視線を送った。

「私はまだ全面的に賛成した訳じゃないわ」
「だが、これはみんな、子ども達のためなんだ。地の底に閉じ込められている闇の民の子達を救い出すんだ」
「人命救助ということなのか? その子ども達は監禁されているということか?」
飴井が訊いた。
「そうだ」
「なら、警察に訴えて……」
「警察が信用出来ると思っているのか?」
浅倉に言われて飴井は黙った。もし、それが特権を持つ組織がらみで行われているとするなら、訴えても無駄だ。巨大な力には逆らえない。飴井は身に染みていた。
「そうだろう。だから、能力者の力を使って……」

「僕は乗らないよ」
ハンスが言った。
「何故?」
「闇の民なんかに関わるのはごめんだよ。ろくな奴がいないもの」
「一概には言えないだろう? 闇の民の誰を知ってる?」
「吹雪とか菘とか、庵。それにサイクロプス」
「吹雪と菘はもういない。庵は部外者だし、サイクロプスは外野だ。関係ない」
「やっぱりろくな連中じゃないよ。それにもし、あなたをそこに加えたとしてもね」
歩道の人影が何人かこちらを見た。が、階段を上がって来る様子はない。車も順調に流れていた。

「直人だって闇の民なんだぜ」
「そんなこと直人は言っていなかったよ」
「あいつは知らないのさ。自分の出自を……」
「教えてあげないの?」
「奴には関わって欲しくないんだ」
「それって随分勝手だね。好きな人が危険に巻き込まれるのはいやだけど、まるで関係のない僕を巻き込もうとするんだ」
「関係なくはないさ。あんたは巫女様の子どもなんだからな」
「そんなの僕は知らないよ」
ハンスは興味なさそうに言う。

「とにかく僕は早く帰りたいんだ」
ハンスは苛々していた。
「仕方が無いな。それじゃあまた、時を改めて」
浅倉は言ったが、ハンスはもう階段に向かって歩き始めている。そして、降り際まで行くとちらと振り向いて言った。
「次はないよ」
取り残された3人が顔を見合わせる。飴井はハンスを追うべきか迷ったが、下を見るとルドルフの車がこちらに向かっているのが見えた。先程、連絡を入れておいたのだ。ならば、ハンスのことは彼に任せればいい。

「では、説明してもらおうか?」
しばしの沈黙の後、飴井が促す。
「場所を変えましょ? ここはまずいわ」
向こうの端から親子連れが上がって来るのが見えた。
「今更だけどな」
浅倉が不敵に笑う。